Mestre Cobra Mansa

Mestre Cobra Mansa
メストレ コブラ・マンサ
Mestre Cobra Mansa メストレ コブラ・マンサ

メストレ・コブラ・マンサはブラジル出身で30年あまりカポエィラ・アンゴーラを修行、その歴史研究・伝統の保持に尽くしてきました。リオ・デ・ジャネイロに生まれ、動きへの渇望と力強い性格が彼を自然体としました。14才でこの芸術に出会って以来その道を離れることはありませんでしたコブラ・マンサという名は「飼い蛇」という意味で、ホーダの中での動きから名づけられました。蛇を思い起こさせるようにスレンダーで素早く、活発で、彼はいつも笑いながらプレイをしていたのです。彼の熱意はそこに留まらず、いつしか目的を持っていました。早いうちから人種差別や杜会の不公平に対抗する運動をはじめ、カポエィラを開放と教育の手段として、その被害者たちに与えてきました。彼はブラジルの黒人運動で大きな役割を担い、その一つとしてよく知られる「プロジェクト・アシェ」において深刻な状況におかれるストリート.チルドレンを助けてきました。

1976年にメストレ・モライスの元に修行を始め、1982年にサルバドールにて、共にGCAPを結成むこれが伝統的なカポエィラのかたち、カポエィラ・アンゴーラを認識し、保存しようとする最初の組織となりました。それまではカポエイラ・アンゴーラはもっと派手なバージョンのカポエイラ・ヘジョナウの影にありました。カポエイラ・ヘジョナウは祖先から受け継ぐ魂的な部分のほとんどを除去してしまっていました。GCAPの努カを通し、古いメストレたちの教えは復活されていきました。生徒たちは豊かなこの芸術の歴史を、動きを、歌を、楽器を教えられました。カポエィラ・アンゴーラをブラジルの杜会変革の荷車としてコミュニテイが形作られていきました。アフリカにある原点から、波乱なブラジルでの歴史をたどり、メストレ・ビンバとメストレ・パステイーニャの努カを通じ、コブラ・マンサはいろいろな視野からカポエイラ・アンゴーラを研究してきました。より正確に理解し、過去から現在にいたるまでのできごとを記録とるため、古いメストレたちを探索し、インタビューし、映像に納めてきました。現在ではカポエイラだけではなく、音楽家、黒人運動、アフリカ武道においても先頭を切る一人となり、また、体育学の学士も取得しました。

1994年にコブラ・マンサはワシントンDCのThe Ausar Auset Societyという学校からの招待を受け、カポエィラ・アンゴーラを子どもたちに教えるために渡米しました。彼の教えるクラスは大人にも子どもたちにも、大変に好評となりGCAPの新しい支部が発足するに至りました。1995年、コブラはGCAPの協賛で行われた第一回カポエイラ・アンゴーラ交流会ヘアメリカから大人数をブラジルヘ連れてきました。この交流会はカポエイラ・アンゴーラを学び、鍛錬する者たちをメストレたちや研先者たちと会わせ、歩み寄るかたちに持っていきました。この対面はワシントンDCの多くの生徒たちの忠誠をかきたて、この交流をぜひ続けていきたいと願いました。この頃、更なる飛躍を求め メストレ・コブラ・マンサはGCAPを離れ、メストレ・ジュランジーとコントラメストレ・ヴァウミー(コブラ・マンサとモライスの生徒)と共にカポエイラのコミュニテイを創造することを目標とし、新たにFICAをワシントンDCに発足させました。彼のリーダーシップの基にワシントンDCのFICAは現在、非営利団体として確立し、カポエィラを鍛錬する環境と情報を提供し続けています。コブラ・マンサは多くの時間と体力を費やして各地のメストレなしでトレーニングをするグループを訪れ、サポートし、勇気付け、知恵を授けています。

今日、彼の時間はFICAをワシントンで確立することと・フィラデルフィア・オーステイン、シカゴ、ニューオーリーンズ、サンフランシスコ、シアトル、サルヴァドール・リオ・デ・ジャネイロ、ベロ・ホリゾンチ、パリの各支部を訪れ、支えていくことに多く注がれています。それに加えて、大学や文化団体などに出張し、ポルトガル語、英語でカポエィラについていろいろなトピック、ビリンバウの演奏、ブラジルの黒人運動について、アフリカの武道について講義を行い、またジョージ・ワシントン大学でもアフリカ=ブラジル文化について教鞭をとつてきました。よって、学者や文人、研究者や学生などがカポエィラやアフリカ=ブラジル文化について研究、執筆するにあたつてはコブラ・マンサを知識減として頼りにしてくることも度々です。ワシントンのFICAセンターは現在彼のコレクションである膨大な数のカポエィラの映像記録と資料を保管し、コミュニテイに利用開放しています。